2013.08.26(Mon)
マイファイナル二都。
公演としては、前楽。
終演後、気づいたら心拍数がすごく高くなってて、汗びっしょりでした。何なの、観劇しての、この生体反応(笑)。
(以下、自分がこの舞台をどう受けとめたのか、記録を残しておきたい一心なので、批評めいた言い回しが気になる方は、読まれないほうがよいかもです。いや、誰に何を言われたわけでもないけど、念のため。)
舞台として、前楽だからとかいうテンションでなく、これまでと変わらぬ圧倒的なパワーだったのは、いかにこの公演が期間を通じてものすごく高いレベルで演じられてきたのかを想う。
今日、私の中で、ドファルジュがつながった。
ガスパールがエヴレモンドの館に乗り込むとき、ウムではなくて、今日は後から数歩追って、ガスパールがいってしまった後の梯子を掴んで、苦悶していた、ように見えた。ドファルジュは、やっぱりまだだと思っていたんだ。そして、小ガスパールの葬儀で、ガスパールが逮捕されそうになって、それをかばって、決意する。
パネル、もう一つの発見。
ダーニーがドクター・マネットにルーシーとの結婚を申し込む場面、なんとパネルが赤なのだ。
その前までに、マダムの独白があり、エヴレモンドの手紙があるから、そのままになってる…という見方も可能だろうけど、例えば最初のエヴレモンド邸での叔父と甥の場面(パネル=赤)から、ダーニーとガベルの別離の場面(パネル=白)への鮮やかなパネル転換を見ても、意図なしに放置しておくとは思えない。
明かされなかったダーニーの名前の秘密、後から襲う不幸の予兆。そんなふうにも見える。
舞台演出って、深い。
ガチョウ、もう最後まで『がっちょんちょん』で行くのかと思いきや…満面の笑みで『無言パタパタ』来ました…!
あと、ルーシーの外人な21の指を真似する浦井ダーニーw
(外人な21 … 2が親指と人差し指、1が親指。外人の数の数えかた。)
あと、今日もガベルは見ていたー。(←あの場面のガベルがまた見れたことがとても嬉しい。笑)
今日はなんか、これまで以上に、カートンの心の変遷が、キタ。
最初のほうのソロでは、自分のことをダメ人間と思いながらも一丁前に人を好きになる自分に、自嘲気味に諦める気持ちと、でもやっぱり、と思う気持ちとで揺れていたけど、ルーシーがダーニーと結婚すると知ったときの、「最高の人間が、最高の勝利を得ると、誰が決めたわけでもなかろうが…」と言いながらの揺れかたは、やっぱり自分はダメなんだというのもありながら、でも、そこから意を決して、貴女のためにこの身を捧げるつもりです、と言えるのは、自分に少し価値を見出している。その間に起きたことは、ルーシーが自分を肯定してくれて、人生は美しい、と思えたことだ。
一幕最後の、もしも彼が命を無くしたとしたら…は、ものすごくギラギラした目で歌っている。二幕の裁判後、ルーシーを抱きかかえるように連れていく姿。この一連の場面は、俺の出番だ、ということなのだよなー。もっと早くに気づいて観れればよかったな。
この、全編通してのカートンの気持ちの揺れっぷりが、この二都の舞台の良いところだな〜と思う。その上での最後の決断、の価値。これは、舞台が原作の上を行っている、と思う。
ひとつだけ、ひとつだけ、カートンの演技に「そこは!」と思うのは、「あなたはいつも人のいいところばかり見るんですか」「あなたは、悪いところを?」「今はそうじゃない」、ここ、ルーシーを真っ正面から見て言うのだけど、今この瞬間は、あなたといういいところばかりを見ている…という意味合いがもっと伝わるには、「今はそうじゃない」は、もっとそうっと言うべきだと、思う…。ま、趣味の領域か。これ、すごく英語的な台詞なんだよね。
あと(ひとつじゃなかった)、イギリスでの裁判前に、ストライバーの事務所でルーシーのことを「あの可愛らしいお人形さん」と言っていて、ということは裁判前に会っているのだから、裁判で初めて会ったかのように見つめるのは、チョットちがう気がする…。
でもしかし、それは何度も観て細かく気にすればの話で、井上芳雄君のあの技術的な安定感は、なんなのだ。技術的というと悪く聞こえるかもしれないけど全然そうではなくて、どんな心情を表現するのだって、歌であり芝居なのだから、技術がなければ成り立たないのよ。私は今回の二都の公演期間に渡って、わりと万遍なく観たけれど、打率で言えば、十割打者ですよ彼は。えと、歌は少なくとも。(芝居は、今もいいけど、きっともっと良くなる部分がある、気がする。)
あの水準を、まったくブレなく毎回performするために、彼は一体どんな大変な努力を、見えないところでしていることだろう。
私は特に彼のファンではないけれど、プロフェッショナルとして、大の舞台ファンとして、井上芳雄君を心の底から尊敬します。
むしろ最近お気に入りの浦井君のことをあまり書いてないのが面白いな(笑)。やっぱり、役柄的に、カートンの写し鏡なんだよね。ダーニーって。
今は子供のままで、で、ぶるぶる肩を震わせて泣きながら歌う浦井ダーニーが好きです。曲の中で、高ぶるポイントは、日によってちょっとずつちがうの。
終盤に向けての、ロリーさんとカートンの場面が好きだなあ。両親に嫌われてたんじゃない、自分が嫌ってたんだと言ってたカートンが、貴方のような人が父親だったなら、きっと悲しませるのは耐えられなかった、でも「幸い」貴方は僕の父親じゃない、(だから自分の計画を決行できる…) と…。
ロリーさんが気づきかけて、疑問を口にしようとするのを、カートンがすいっと逸らすの。切ない。
バーサッドとカートンの「一か八か」の場面が、もう観れないのが悲しい!大好きだったのに〜。福井さんの動きや台詞まわしが大好きだー。カートンが、意図がバレやしないかドキドキしながら様子を伺っていて、バーサッドの勘違いにここぞと乗っかる流れとかも大好きだー。
マダムの最期、ずっと気になっていて、今日も自分の中で解決しなかったのは、なぜ、演出的に、ドファルジュはマダムの息がある間に、ミス・プロスとクランチャーを行かせたのだろう、そしてマダムにそれを見送らせた上で息を引き取らせたのだろう、ということ。私がマダムなら、ムチャクチャ悔しい。絶対許さない。でも特にそういうリアクションもなく、息を引き取っていく。どういう意図なのかな。あれは。なぜ彼女にそれを見せたのかな。
(追記。マダムが亡くなった後のタイミングで逃がしてやると、夫ドファルジュのマダムへの裏切りのようになるからかしら?)
思い出したら、尽きないけど…
尽きないので、ここでアップします。
私の夏休みも、これにて終了。
観劇にあたって「通う」という行為を基本的にしない私が繰り返し足を運んでしまった二都が、仙台への転勤の前の、このタイミングで上演されたというのは、個人的な小さな奇跡。
公演としては、前楽。
終演後、気づいたら心拍数がすごく高くなってて、汗びっしょりでした。何なの、観劇しての、この生体反応(笑)。
(以下、自分がこの舞台をどう受けとめたのか、記録を残しておきたい一心なので、批評めいた言い回しが気になる方は、読まれないほうがよいかもです。いや、誰に何を言われたわけでもないけど、念のため。)
舞台として、前楽だからとかいうテンションでなく、これまでと変わらぬ圧倒的なパワーだったのは、いかにこの公演が期間を通じてものすごく高いレベルで演じられてきたのかを想う。
今日、私の中で、ドファルジュがつながった。
ガスパールがエヴレモンドの館に乗り込むとき、ウムではなくて、今日は後から数歩追って、ガスパールがいってしまった後の梯子を掴んで、苦悶していた、ように見えた。ドファルジュは、やっぱりまだだと思っていたんだ。そして、小ガスパールの葬儀で、ガスパールが逮捕されそうになって、それをかばって、決意する。
パネル、もう一つの発見。
ダーニーがドクター・マネットにルーシーとの結婚を申し込む場面、なんとパネルが赤なのだ。
その前までに、マダムの独白があり、エヴレモンドの手紙があるから、そのままになってる…という見方も可能だろうけど、例えば最初のエヴレモンド邸での叔父と甥の場面(パネル=赤)から、ダーニーとガベルの別離の場面(パネル=白)への鮮やかなパネル転換を見ても、意図なしに放置しておくとは思えない。
明かされなかったダーニーの名前の秘密、後から襲う不幸の予兆。そんなふうにも見える。
舞台演出って、深い。
ガチョウ、もう最後まで『がっちょんちょん』で行くのかと思いきや…満面の笑みで『無言パタパタ』来ました…!
あと、ルーシーの外人な21の指を真似する浦井ダーニーw
(外人な21 … 2が親指と人差し指、1が親指。外人の数の数えかた。)
あと、今日もガベルは見ていたー。(←あの場面のガベルがまた見れたことがとても嬉しい。笑)
今日はなんか、これまで以上に、カートンの心の変遷が、キタ。
最初のほうのソロでは、自分のことをダメ人間と思いながらも一丁前に人を好きになる自分に、自嘲気味に諦める気持ちと、でもやっぱり、と思う気持ちとで揺れていたけど、ルーシーがダーニーと結婚すると知ったときの、「最高の人間が、最高の勝利を得ると、誰が決めたわけでもなかろうが…」と言いながらの揺れかたは、やっぱり自分はダメなんだというのもありながら、でも、そこから意を決して、貴女のためにこの身を捧げるつもりです、と言えるのは、自分に少し価値を見出している。その間に起きたことは、ルーシーが自分を肯定してくれて、人生は美しい、と思えたことだ。
一幕最後の、もしも彼が命を無くしたとしたら…は、ものすごくギラギラした目で歌っている。二幕の裁判後、ルーシーを抱きかかえるように連れていく姿。この一連の場面は、俺の出番だ、ということなのだよなー。もっと早くに気づいて観れればよかったな。
この、全編通してのカートンの気持ちの揺れっぷりが、この二都の舞台の良いところだな〜と思う。その上での最後の決断、の価値。これは、舞台が原作の上を行っている、と思う。
ひとつだけ、ひとつだけ、カートンの演技に「そこは!」と思うのは、「あなたはいつも人のいいところばかり見るんですか」「あなたは、悪いところを?」「今はそうじゃない」、ここ、ルーシーを真っ正面から見て言うのだけど、今この瞬間は、あなたといういいところばかりを見ている…という意味合いがもっと伝わるには、「今はそうじゃない」は、もっとそうっと言うべきだと、思う…。ま、趣味の領域か。これ、すごく英語的な台詞なんだよね。
あと(ひとつじゃなかった)、イギリスでの裁判前に、ストライバーの事務所でルーシーのことを「あの可愛らしいお人形さん」と言っていて、ということは裁判前に会っているのだから、裁判で初めて会ったかのように見つめるのは、チョットちがう気がする…。
でもしかし、それは何度も観て細かく気にすればの話で、井上芳雄君のあの技術的な安定感は、なんなのだ。技術的というと悪く聞こえるかもしれないけど全然そうではなくて、どんな心情を表現するのだって、歌であり芝居なのだから、技術がなければ成り立たないのよ。私は今回の二都の公演期間に渡って、わりと万遍なく観たけれど、打率で言えば、十割打者ですよ彼は。えと、歌は少なくとも。(芝居は、今もいいけど、きっともっと良くなる部分がある、気がする。)
あの水準を、まったくブレなく毎回performするために、彼は一体どんな大変な努力を、見えないところでしていることだろう。
私は特に彼のファンではないけれど、プロフェッショナルとして、大の舞台ファンとして、井上芳雄君を心の底から尊敬します。
むしろ最近お気に入りの浦井君のことをあまり書いてないのが面白いな(笑)。やっぱり、役柄的に、カートンの写し鏡なんだよね。ダーニーって。
今は子供のままで、で、ぶるぶる肩を震わせて泣きながら歌う浦井ダーニーが好きです。曲の中で、高ぶるポイントは、日によってちょっとずつちがうの。
終盤に向けての、ロリーさんとカートンの場面が好きだなあ。両親に嫌われてたんじゃない、自分が嫌ってたんだと言ってたカートンが、貴方のような人が父親だったなら、きっと悲しませるのは耐えられなかった、でも「幸い」貴方は僕の父親じゃない、(だから自分の計画を決行できる…) と…。
ロリーさんが気づきかけて、疑問を口にしようとするのを、カートンがすいっと逸らすの。切ない。
バーサッドとカートンの「一か八か」の場面が、もう観れないのが悲しい!大好きだったのに〜。福井さんの動きや台詞まわしが大好きだー。カートンが、意図がバレやしないかドキドキしながら様子を伺っていて、バーサッドの勘違いにここぞと乗っかる流れとかも大好きだー。
マダムの最期、ずっと気になっていて、今日も自分の中で解決しなかったのは、なぜ、演出的に、ドファルジュはマダムの息がある間に、ミス・プロスとクランチャーを行かせたのだろう、そしてマダムにそれを見送らせた上で息を引き取らせたのだろう、ということ。私がマダムなら、ムチャクチャ悔しい。絶対許さない。でも特にそういうリアクションもなく、息を引き取っていく。どういう意図なのかな。あれは。なぜ彼女にそれを見せたのかな。
(追記。マダムが亡くなった後のタイミングで逃がしてやると、夫ドファルジュのマダムへの裏切りのようになるからかしら?)
思い出したら、尽きないけど…
尽きないので、ここでアップします。
私の夏休みも、これにて終了。
観劇にあたって「通う」という行為を基本的にしない私が繰り返し足を運んでしまった二都が、仙台への転勤の前の、このタイミングで上演されたというのは、個人的な小さな奇跡。
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