FC2ブログ

スランプ!

あー。
なんかスランプ!仕事が。
仕事自体が不調というよりは仕事に向かう気持ちというか雰囲気というか環境づくりというか、が、スランプ!
外的要因はあきらかなんだけど、自分の気持ちひとつだからね~、こういうの。そこをうまくギアチェンジできないところが、スランプ!
2週間ぐらいがっつり休みてぇ!

プライベートはそれなりにしっかりプライベートしている。
『プラダを着た悪魔』を観に行った。
『RENT』来日公演を観に行った。
『ウォーク・ザ・ライン』をレンタルで観た。(最後の20分ぐらい見ないまま期限切れになり今朝返却ボックスに投入してきた。)
『西遊記』のDVD BOX IIが来た!うおお!まだ見れていない。
『信長の棺』がもうすぐ読了。次は実用書が何冊か、たまっている。
前の会社の同僚の新生児に会いに行った。
夫の誕生日を祝った。

そんなかんじで、プライベート側は、悪くないのよ。
仕事のときに仕事モードにがつっとギアが入りきらない、というのか。仕事中にだらだらしているとかいうことは全くないのだけど、少し前のように限りなく前向きな気持ちでバリバリ仕事しちゃおう的なノリが出ないつうのか。スランプ!休養必要かも!
スポンサーサイト



加藤 廣 『信長の棺』

今日、風呂に入る前に化粧を落としながらふと考えた。

「フンドーキンって何屋さんだっけ・・・?」

洗顔しながらしばらくずっと考えたけど商品カテゴリがなんだったか思い浮かばない。たぶんメーカーなのは間違いないが、と思いつつ頭の中で漠然と転がしているけれども、分からない。

その後風呂に入りながらふと、

「みそ・・・? フンドーキンみそ・・・?」

なんとなくフンドーキンと味噌の間にコロケーションを感じながら、しかし確たる自信もなく、後で絶対調べよう、と思って風呂を上がる。


正解は「フンドーキン醤油株式会社」でした。
大分の会社だったのか。(私は福岡出身)
でも商品に「フンドーキンみそ」もあるから当たりとする。


と、いう話をなぜ「加藤 廣 『信長の棺』」というタイトルの元にお送りしているかというと、今日読んだ箇所に出てきた以下のことばがきっかけで記憶の奥に眠っていた「フンドーキン」が拾われてきたのに違いないから。記憶の働きっておもしろい。


分銅金【ふんどうきん】

分銅【ふんどう】
秤の分銅の形に鋳造した金銀。貯えて非常の際に貨幣にしたもの。(広辞苑)



ちなみに先週からこの週末にかけて『天保十二年のシェイクスピア』やら『吉原御免状』やらのDVDを立て続けに見まくったお陰で時代劇モードに火がつき、だいぶ前に買って手をつけずにいた『信長の棺』を日曜の夜から一気に読み始めたのでした。はや半分くらいまで読み進んだ。読んでないときに最初のページを見たときは「読みにくいかも」と思ったものだったけど、読み始めてしまうとすいすい行ける。文章も思っていたよりずっと読みやすいけど、話の面白さが大きいなあ。

DVD『天保十二年のシェイクスピア』(蜷川版&新感線版)

前回書いた以降、蜷川の『天保十二年のシェイクスピア』のDVDも観、その後新感線の『天保十二年のシェイクスピア』のDVDも買い、観、『吉原御免状』のDVDも観、ついでに買った『笑の大学』のDVDも観た。蜷川を先週末に観た以外は全て今週末、というか今週土曜日に観た。ついでに今日『24』シーズンVの最初の2話を見たので、この週末は一体トータル何時間のDVD視聴だろうか。(あ、あと西遊記も一話見たなあ。)

前回と重ねて書くことになるが、舞台のDVDもあなどれないねえ。以前と比べて、舞台の映像を編集する技術、というか、センス、みたいなものが上がっているからかなあ。ロングで舞台全体をボー然と映していると生の舞台を観ているときの良さが全く伝わらないのはもちろん映像としても極めて退屈だけれども、今回買ったDVDはどれも「映像として見せられる」ことが考えられた編集になっていた、というか。(『笑の大学』はあんまりそういうことが影響しない舞台なので除く)ただまあ、編集やりすぎでカット割りを細かくしすぎて末梢神経を刺激することを狙いすぎてる感があるのもあったが、まあそういうのは極端な時期をとおりすぎていいところに落ち着いていくものなのでしょう。

舞台物を舞台以外のメディアで観て感想をあれこれ言うものでないと思うが、あえて書けば、蜷川の『天保十二年のシェイクスピア』は、良かった。先週末に観て、全編4時間だということにも気づかないぐらい集中して観終えて、あまりに良かったので続く平日は毎日夜中に好きなシーンや好きな歌のところを選んで見ていた、毎日。
主に見ていたのは唐沢寿明のシーンと藤原竜也のシーン、次に多かったのが三姉妹(篠原涼子、夏木マリ、高橋恵子)のシーンか。
舞台以外のメディアで観て言うのもなんだが、藤原竜也は舞台映えのする役者なんだなあ!評価が高い理由が今回初めて分かった。映画とかで見ていても、これまで全然いいと思ったことがなかったんだよね。身体能力が高くて動きの切れがいい舞台役者は、見ていて気持ちがいい。
新感線の『天保十二年のシェイクスピア』は、生舞台でも観ていて、それはそれで良かったし、個別の曲とかこっちのほうがいいものもたくさんあるけど、『天保十二年のシェイクスピア』という芝居、というか戯曲、をしっかりとみっちりとやれているのは、さすがに蜷川版のほうだなあ、と今回DVDで新感線版を観て思った。芝居全体の流れ、というかダイナミズム、というか一本筋が通っているところ、を、新感線版は読み込み不足からか優先順位を低く考えていたからか、結果としてなおざりにしているのが目にとまった。具体的には、隊長の扱いや、王次のセリフの演出などかな。隊長は、蜷川版、すなわち井上戯曲に忠実に作られているとのことなので井上版、では、最初から一貫して語り部として登場し、抱え百姓として登場し、百姓達の中ではじさまという存在として登場しており、常に観客に寄り添って4時間の芝居を生きてくるわけで、それが物語の最後に三世次に斬られることで観客が受ける衝撃というのが、役割を寸断してしまった新感線版では全く得ることのできない大きさだと思うのな。王次で気になったのはお冬とのシーンのセリフの新感線版での解釈が、井上戯曲の意図と違ったんじゃないかなあ、というところ。それでいえば三世次の位置付けもね。新感線版は三世次に同情の余地を残してしまっている。(これは冒頭の女郎屋シーンが無いことが結構大きい。と思う。)蜷川版は、ホント同情の余地無しだもんね。こっちこそ完全超悪。蜷川版は、どの役によらず、芝居全体の中でその人物の動機付けが二転三転したりせず、場面場面のセリフが切り離されたものになってしまわず、感情の動きが一環してつながっているのが、さすが日本を代表する舞台演出家だと言われるのはこういうところが違うのだなあ、と思った。

そしてマイナーなところでやや気になったのは、蜷川版でウェストサイドの「Tonight」を歌う部分は「著作権保護のため音声を一部カットしております」でその部分の音が全く流れないのに、新感線版の関八州の親分衆談合の場面でクイーンの「Somebody to love」の替え歌は丸々流れているのは、いいのか?あれは?舞台での使用許諾契約のときにどこまで含めていたかによるのか??


あ、えーと、『吉原御免状』も良かった。
新感線はオリジナル台本だと話がくだらないイメージがあって、これなら原作物だからいいかなと思って買ったのだけど、特典映像でいのうえひでのりが、これまでは「見せ場主義」だったけど今後はもっと「ドラマ」を中核にして、その上で必要な表現であれば歌や踊りや立ち回りを入れる、という考え方にシフトしていく、という話をしていたので、なら今後の新感線には期待してもいいのかなあと思った。「見せ場主義」というだけに、舞台の見せ方はもんのすごく魅力的なので、これでドラマを語れる芝居を作れるようになったら鬼に金棒だろう。
堤真一も、以前舞台で観たときは「身体能力は高いけど芝居がクサくてイヤ」と思ってたけど、うまくなったんじゃないでしょうか。芝居。(あんまり難しい「芝居」を要求される役じゃなかったけどね。)


昨今はもうさすがに「舞台を観ると『また舞台やりたいなぁー』という気持ちがふつふつと湧いてしまう病」は治まったなあ、としばらく前に思ったことがあったけど、今回一連のDVD鑑賞で、またふつふつと来てしまったなぁー。これは一生こうなんだろうかね。
プロフィール

td

Author:td
現在の座右の銘
It's not about winning the moment.  It's about winning the day.

最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索
RSSフィード
リンク